What's焼酎甲類 そもそも焼酎甲類ってなに?What's焼酎甲類 そもそも焼酎甲類ってなに?

TOPICS

焼酎甲類の誕生は、明治時代にまでさかのぼります。
焼酎甲類はどのように誕生したのか。当時から、今日に至るまでの歴史を探索してみましょう。

Topic1:蒸留酒の起源

蒸留そのものの技術は紀元前3500年ごろメソポタミアで生まれたといわれています。もちろん最初はお酒を作ることが目的ではなく、花などを原料としてスパイスや香油を精製していたようです。
しかしながら、この技術から「いつ、なぜ、どのようにして」お酒(蒸留酒)が生まれてきたのか?その実際は解き明かされていません。推測としては、好奇心の強い人間が普段は蒸留しない穀類などをたまたま蒸留器にかけてみたところ、アルコール(お酒)が抽出されたというところでしょうか?それを口にした時のその人の驚きは想像するにあまりあります。史実としては紀元前800年から750年ぐらいにかけてインドとエチオピアで蒸留したお酒が作られていたことが知られていますが、これが蒸留酒の起源であるとは限定できないようです。蒸留の技術そのものは、その後「錬金術」ブームに乗って磨きをかけられ、アレキサンダー大王の征服の軌跡に乗って各地で花を咲かせることになります。もちろん蒸留の技術だけでなく蒸留酒も各地へ伝播したことはいうまでもありません。

Topic2:生命の水(いのちのみず)

ラテン語でaqua vitae(アクアヴィッテ)、フランス語ではeau de vie(オードヴィー)。「生命の水」という意味です。 今日では北欧諸国でつくられているスピリッツ、aquavit(アクアビット)にその名を残しています。
さて、錬金術とともに各地へ伝搬、進化していった蒸留の技術。そこで生まれる蒸留酒をいつしか錬金術師たちは「生命の水」と呼ぶようになりました。アルコール度数も純度も高く、また冷えた蒸気からポタリポタリと生み出されてくる蒸留酒は、まさに生命の水と呼ぶにふさわしかったかもしれませんし、その薬効からも生命の水と云われていたようです。13世紀半ばにフランスの錬金術師アルノー・ド・ヴィエヌーヴは「ワインやワインの搾り粕を蒸留するなら、その最も精緻な部分が抽出され、これによって生命を長らえる効果がある。まさに eau de vie(生命の水)と呼ぶにふさわしい」と蒸留酒のことを記しています。
そして、生命の水は山を越え、海を渡り、ブランデーやシェリー、ウイスキー、ジン、ウォッカ、ラムなど地域や原料・製法などによって様々に姿を変え、やがて遠い東の国=日本へも焼酎として伝わることになるのです。

Topic3:焼酒と焼酎(シャオチュウとしょうちゅう)

中国では蒸留酒のことを焼酒(シャオチュウ)とか白酒(パイチュウ)と呼びます。「焼」は蒸留のこと、「白」は無色透明であることを意味しており、焼酒が焼酎の 語源であることはいうまでもありません。
蒸留酒が中国に伝わったのは宋の時代のこととされており、シャム(現在のタイ)から焼酒が中国国内に運ばれてくることが11世紀の書物に記されています。またその書物には、焼酒が非常にアルコール度数が高く、よほどの酒飲みでも3~4杯で酔ってしまうと強調されていることからも、それまで国内で作られていた米や麦の醸造酒に比べて強い酒として着目されていたことがわかります。そして時を経て13世紀はじめ、海を渡り、李氏朝鮮からの貢ぎ物として焼酒が初めて日本(対馬)に伝来することになります。

Topic4:朝鮮ルートと琉球ルート

前回のTopic3で、焼酎は李氏朝鮮からの貢ぎ物として対馬に最初に伝来したことをご紹介しましたが、南方ルートとして琉球から伝来したという説もあります。琉球国(今の沖縄県)は1400年代初めから南蛮(おもにシャム)との交易を始めており、その中に焼酎が含まれていたというものです。琉球へ伝来した焼酎はその後、薩摩(今の鹿児島県)に渡り、次第に東上していったものと思われています。
もちろん、朝鮮ルート・琉球ルートどちらか一方から渡来したということではなく、当時は双方に交易の窓口を開いていたわけですから、両方から別々に渡来したという見方が妥当かもしれません。この南蛮渡来の焼酎は「阿剌吉(あらき)酒」という名前で江戸時代を通して呼ばれていました。

Topic5:阿剌吉酒

南蛮渡来の蒸留酒(焼酎)は江戸時代を通して阿剌吉(あらき)酒と呼ばれていました。この「あらき」という呼び名は東南アジアやインドその他の広い地域で飲まれていた蒸留酒「アラック」がなまったもので、Topic1でもご紹介した蒸留器「アランビック」と語源を一にしています。その語源とはアラビア語の「汗」arrakといわれています。
いかにもポタリポタリと蒸気が液化されて強いお酒が生まれる蒸留酒らしいですね。阿剌吉(あらき)酒は荒木酒とも書かれ、江戸時代初期の文献「本朝食鑑」には『荒木酒よく疝積(胃や腸の痛み)を治す』という記述があります。
他にも薬効が記述されている文献は多く、阿剌吉(荒木)酒は一般の焼酎や泡盛と一線を画したもので、薬用蒸留酒のことであったとする説もあります。阿剌吉酒の名前は北原白秋の詩集『邪宗門』の「邪宗門秘曲」にも登場しますので、一節をご紹介しておきます。この邪宗門は明治42年に白秋のデビュー作として文壇に発表され大きな衝撃をもって迎えられたものです。

PAGE TOP